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"菜翁が旨"さんのほほ~ぇむ健康ペ~ジ

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Manet(1832-1883)

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【?douard Manet(1832-1883)】
エドゥアール・マネ
マネ1868エミール・ゾラの肖像
エミール・ゾラの肖像】1868年
『居酒屋』や『ナナ』など、第二帝政期のパリの社会風俗を描き出した小説の作者として知られるゾラは、また美術評論家でもあって、若い頃には、しばしば展覧会批評に健筆を振った。そのゾラの批評活動のうちで特に重要なのが、1866年のマネ擁護論である。この年マネは、前年のサロン(官展)に出品した「オランピア」が散々の悪評であったことも崇って、サロンで落選の憂き目を見た。ゾラは早速、審査員たちに対して強い不満を表明し、マネこそは当然ルーヴル美術館に迎え入れられるべき画家だと論じた。当時のマネは、少数の支持者を別にすればもっぱら非難攻撃の的であったから、ぞらの援護は大変有難いものであったろう。この機会に二人は急速に親しくなり、マネは、ゾラに対する感謝の意味をこめて、この肖像をかいたのである。この作品のために、ゾラは何回かマネのアトリエに通ってポーズしたというが、画面の舞台設定は、ゾラ自身の書斎である。ゾラは、開いた本を手にした横向きの姿勢で椅子に座り、脚を組んで鋭い視線を前方に投げかけている。机の上の多くの本や文房具は、一見無造作に置かれているようだが、しかし、鶯ペンの後ろにある薄いブルーの表紙の本のうえに、「マネ」という題名と著者であるゾラの名前がはっきり読み取れるように書かれているのは、おそらく偶然ではないであろう。この本は、1867年に刊行されたゾラの『マネ論』であるが、マネは、この本だけをわざわざ正面向きに画中に配することによって、ゾラと自分の関係を明らかにし、同時にまた、洒落たやり方でこの絵に署名もしているのである。同様な凝った演出は、背景にも認められる。背景に描かれているのは、左手の方に日本の花鳥図の屏風、右手の壁に二代国明の力士像の浮世絵と「オランピア」の模写、およびそれに半分隠されたようなかたちのベラスケスの「バッカスとその仲間」の版画である。このうち日本美術とベラスケスは、当時のマネに大きな影響を与えた範例であり、「オランピア」は言うまでもなく、彼にとって記念すべき作品である。いわば自己の美学宣言であったと言ってよい。しかも、その力士も、オランピアも、バッカスも、いずれも視線を画中のゾラに向けていることをアメリカのレフ教授が指摘しているが、そこにも、ゾラに対するマネの気持を読み取る事が出来るであろう。(高階秀爾 東京大学教授)
マネ1874ボートの上で制作するモネ
ボートの上で制作するモネ】1874年
ボートの上、日差しを防ぐ布のシェードのもとで、麦藁帽に白いシャツのモネが河岸の風景を描いている。イーゼルの向こうには夫人の姿も見える。さざ波がキラキラ光り、ボートはオールを遊ばせたまま、静かに揺れる。この絵を描いたのは、モネの友人であり先輩ともいうべきマネである。1874年当時、モネは、パリ郊外、セーヌ河畔のアルジャントゥイユに住んでおり、そこにマネが遊びにいったのだろう。モネは、よく知られているように、ピサロやシシレーとともに、印象派の中心となった画家である。印象派という呼称さえも、モネの作品「印象・日の出」から発している。彼は、アルジャントゥイユで、陽光を受けて刻々と変化する自然を描くことに熱中していた。とくに揺れ動くプリズムのような水面に魅せられ、ここに見るような屋根つきのボートをセーヌに浮べて、水上のアトリエとしていたほどである。一方、マネは、印象派の画家たちの良き理解者であったが、モネやピサロに比較すれば、よりアカデミックであり、また都会的であったと言える。その作品の多くは、浮世絵からヒントを得たと思われる描線や平塗りの色面といった点で革新的であるが、この、ボートの上のモネを描いた絵では、そういう特質は影をひそめて、筆触や筆の使い方が印象派風になっている。つまりマネは、若い後輩達の新しい手法を試みたように思える。モネもマネもアルジャントゥイユで、何点かの美しい作品を描いている。仲間であったルノアールにも、ここでの作品がある。そして、不思議なことに、アルジャントゥイユで描かれた作品群は、それぞれの画家の区別がつかないほど似ている。それは芸術上の大きな革新へと踏み出した若い画家たちが深い友情で結ばれていたことを物語るように思える。マネでさえも、こんな風に描くようになったのだから――。製作中の画家や彫刻家を主題にした作品は、昔から少なくない。しかし、この絵のように、描くものと描かれるもの双方共に偉大な芸術家であり、しかもそこに深い結びつきを感じさせる場合は極めてまれである。芸術家がパトロンのために制作する時代が終わりつつあること、明るい色調や軽やかな筆触は、造形的な新しさを示すだけではなく、精神の解放を象徴するものであることを、この一枚のカンバスは物語っている。(友部直 共立女子大学教授)
マネ1877ナナ
ナナ】1877年
十九世紀の画家たちの中で、マネほどにその作品によって次々とスキャンダルを招いた人はあるまい。1863年のサロンに落選した《草上の昼食》は、当世風に正装した紳士と裸婦が一緒にいるのが破廉恥だといわれ、二年後のサロンに出品した《オランピア》は、街のどこにでもいるよな少女を裸にして娼婦に見立てた、世論に挑戦するポルノだと非難された。1867年の万国博覧会の際、会場の側に小屋を建てて開いた個展は、大衆の非難と嘲笑をあびただけであった。それから十年後、すでに印象派の父と仰がれていたマネがサロンのために意気込んで描いた《ナナ》は、謹厳な審査委員会の不興を買って落選した。そもそも下着姿の女が淫らであり、そのうえ後にシルクハットに燕尾服の紳士がいるという設定が不道徳であったというのだった。題名からして発表されたばかりのゾラの『居酒屋』の主人公を連想させるナナ》の主題は、化粧中の高級娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)であり、ドーミエの風刺版画ならいざ知らず、「真面目な」絵画にこのような主題が堂々と取り上げられたのは、初めてであった。(あのトゥールーズ=ロートレックに十年以上も先んじて!)しかし、マネはことさら事を構えて世のスキャンダルを求めたのではなかった。親友のアントナン・ブルーストが指摘するように、彼は「観る者を喜ばせるためにではなく、自分の見たものを(見た通りに)描きたかった」だけなのである。彼はその写実主義の精神においてクールベの継承者であったが、彼の写実主義はクールベのように社会的理念からくる観念的なものではなく、もっと純粋に感覚的なものであった。この《ナナ》にしても、マネは最も身近な現実、しなわちボードレールのいう「現代生活」を題材としてとりあげただけのことである。紳士と娼婦の交際は当時はそう奇異とはいえない風俗であり、この《ナナ》のモデルになったのもオランジュ公の情婦であるシトロンことアンリエット・オゼーという高級娼婦メリーと恋愛中であったのだ。もっとも、「現代には現代の美があるはずだ。」として普遍性に対する「近代性」の優位を説いたボードレールが常にマネを擁護したのは、彼の主題以上にその構図や色彩の感覚が時代に即したものであったからに相違ない。(八重樫春樹 国立西洋美術館学芸課長)
マネ1878ごろビールを運ぶウェイトレス
ビールを運ぶウェイトレス】1878年ごろ
今夜もなじみ客の間をぬって、若いウェイトレスが手際よくビールを配ってゆく、左手にかかえこんだ大きなガラスのジョッキが触れあい、きびきびした動きに快活な伴奏を入れる。客のくゆらすパイプの煙、花模様の壁紙、奥の舞台から流れる音楽と歌、くらめきシャンデリア―。普段着の男も、シルクハットの紳士も、陽気な色彩と音響の交錯のなかで、宵のひとときを楽しんでいる。ボードレールのうたった「老いてますますさかんな、働きもののパリ」の顔がここにある。マネはこの大都会を心から愛していた。富裕な裁判官の家で育った、その社交的な性格は、年をとるにしたがって、ますますこの画家をパリの生活から離れ難くさせた。とくに1870年代になって、マネの描く主題は、パリの街の生活に集中するようになる。上流階級のエレガントな婦人たち、いきいきと働く人たち、酒場やカフェでくつろぐ人たちが、つぎつぎと登場する。画面の群集のなかに、自分の友だちのだれ彼を描きこむこともしばしばみられる。この作品では、軽妙で素早い筆触が、広い室内に揺れ動く音と光りをそのまま伝えている。ウェイトレスの白い顔だけは、ていねいに色が置かれており、それが、動きの中の一瞬の静止、つまり、ぱっとこちらを向いたという感じを、いっそう強めている。この絵が描かれたころ、モネ、ピサロ、ドガといった若い画家たちは、印象派として存在を示しはじめていた彼らの良き先輩として、マネはそのあたらしい手法に深い理解を示しながらも、ついに正式にはその仲間に加わらなかった。このウェイトレスの顔は、リアルに人間を見つめる、とくに集団のなかの個を正確にとらえるという点で、マネが印象派とは別のいきかたをしたことを明らかに示すように思われる。マネのポケットには、いつもクロッキー用のノートが入っていた。晩年、ひざの病気で、長時間の制作が無理となったが、心の向くままに描いてきたスケッチをもとに、アトリエでパリの生活を描き続けた。この作品は、当時のパリで流行していたドイツ風のビアホールの一隅を描いたものである。一説によると、前景の青い上着の男は、このウェイトレスのボーイフレンドで、彼女の強い希望でここに描きいれられたという。同じころ、同じ場所を描いた作品がロンドンのナショナル・ギャラリーにある。(友部直 共立女子大学教授)
温室のなかのマネ夫人
温室のなかのマネ夫人】1879年
柔らかな、しかし温室のガラス越しであるために、少し青みがかり冷たく見える光りが、周辺の植物の緑の諧調を生き生きとさせる。なんの花かよく分からないが、何種類かの白い花が、その緑の諧調のあいだに点在している。ゆったりとしたグレイの服、白い襟のマネ夫人が、温室の中のベンチに座り、視線を右方に向けている。彼女がしていたらしいショールが、ベンチの右にかけられていて、これも、まるで温室の花のように、白と水色の筆致で描かれている。しかし、なんといっても、マネ夫人、シュザンヌ・レーンホフ(1830-1906年)の明るく血色のよい、そして誠実そのもののような顔が、この温室の少し冷たげな光りのなかで、花以上に輝いている。レーンホフはオランダ人で、パリでピアノの教師をして生計をたてていた。彼女は十九歳のときから、マネ兄弟にピアノを教え、間もなくマネの愛人となり、子供までもうけている。マネは、父親が死んでから彼女と結婚する。このとき、式のためにオランダに出かけるマネに会ったボードレールは、「思いがけないしらせを告げにマネが私のところにやってきた。彼は今夜オランダに行って奥さんを連れて帰るというのだ。彼女がとっても美しく、善良ですぐれた音楽家だというようなことをいってたね。」と語っている。実際、彼女は、「温厚さ、率直さ、純真さ、何ものにも代え難い誠実さ」をもっていたようであり、マネ家に集う詩人のマラルメたちは、ことごとく彼女の美徳と音楽の才能を賞賛している。其の上、ベルト・モリゾ、エヴァ・ゴンザレスなどの美しい女弟子を持ち、多くの女優や踊り子などの出入りのはげしいマネ、そして中年すぎてからは足の病気と運動失調症でいら立ちの多かったマネを支え続けた、心温かい女性だったようである。この作品が描かれたのは、四十歳のころである。ところで、マネは、この作品と全く同じ温室で1879年のサロンに出品された『温室にて』を描いている。フォーブール・サン・トレノ街に高級なブテイックを持つ、ギュメ夫妻の像である。この作品とはかなり筆致が異なる。これは、ほかの場合にもいえることで、サロン出品作品は、審査員の目を意識してより確定度の高い仕上げを試み、夫人や子供や、あるいは友人や女友達の場合には、むしろ粗い塗りの生き生きした調子を大事にしたためである。どちらもマネであるが、むしろ後者の方に、生きた生活の感覚をそのままに描こうとするマネの本質を見出せるかもしれない。(中山公男 美術史家)
エドウアール・マネ1880女の肖像
女の肖像】1880年
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引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
     日本経済新聞「美の美」(別刷り)



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